高鍋町名誉町民 故上條勝久先生 高鍋町民葬
<2012年4月21日(土)>

平成23年12月27日、101歳の生涯を終えられました故上條勝久先生の高鍋町民葬に参列。
参議院を代表して弔辞を読ませて頂きました。
在りし日の上條勝久先生の面影をしのび、ご冥福を心からお祈り致します。

弔     辞

  参議院を代表致しまして、勲二等旭日重光章受賞、高鍋町名誉町民、従四位叙位、元参議院議員、故上條勝久先生のみたまに謹んで哀悼の言葉を捧げたいと存じます。
  東京の桜が散り始めた、ご逝去から108日目にあたる今月13日に、先生のお墓に参りました。
  先生のお墓は、国会から、車で1時間半程のところにある神奈川県藤沢市の大庭台墓園の一角にあります。
  心地よい春の風と桜吹雪で、先生は迎えてくださいました。達観された先生にご指導を頂くと、雲が一瞬にして晴れるようでございます。
  お墓のすぐ横に、辞世の句、先生最後の句として、「荒海の旅おえにけり春の丘」の歌碑が建立されています。そして、そのすぐ横には、郷土宮崎のはにわが寄り添うように置かれています。
  先生は、中学4年の時にお父様を亡くされ、上級への進学こそ断念されたそうですが、ご友人の方々が回想されていらっしゃる言葉をかりれば、困難にあっても、諦めずになんでも挑戦する努力家で、持ち前の南国的な明るさ、細やかな気遣いなどで人を魅了し、歌碑のごとく、波乱万丈の人生を駆け巡った人情味豊かな野武士の生涯でした。
  又、人生で一番大切な人格形成時代を過ごさせて頂いた郷里の恩恵は片時も忘れることはできないと、はにわがあらわすように常に軸足は、故郷に置かれていたように思います。
  我々が、敬愛して止まない上條先生は、戦前から戦後にかけ、一貫して都市計画に携われ、我が国の戦後復興に多大なご貢献をなさいました。旧建設省時代は、従来のエリート官僚とは全く違ったタイプの、いわば現場から叩き上げらて中央に躍り出た異色中の異色で、その才覚は、同年の大平正芳、のちの総理と肩を並べるほどだったそうです。
  先生は、郷土の皆様の熱い要請を受けて、昭和49年から2期12年に亘り、参議院議員としても、国会における主要ポストを歴任され、わが国と郷土の発展に寄与されました。
  中でも、県民の悲願であり、間もなく全線開通予定の東九州高速道路に関しては、先生が先鞭をつけてくださいました。
  当時、先生は、自民党の国土開発近畿圏委員長であり、高速道路建設には絶対の権限があった国土開発幹線自動車道建設審議会において、年に一度の総会の席上、開会間際にふと立ち上がり、壇上に駆け上がって、チョークを持って、広げられている高速道路地図に宮崎と大分を赤い線で結んだ話は、後に地元紙でも最大の功績と述懐されています。
  又、職員や現場に従事される方を大事にされたことでも参議院で語り草になっています。縁の下で支えてくれる、第一線で働く者が大事なんだと解かれ、職員の職場環境の整備にも力を注がれました。俺が俺がが日常の政界にあって、自分から決してポストを求めず、小さいことも目配りされていたのは、苦労されてこられたご経験からでしょうか。

  去る3月1日には、都内のホテルで、有志による上條勝久先生お別れの会が開催され、地元の後輩として出席しました。
山東昭子前参院副議長、古賀誠先生を初め、各界各層から上條勝久先生を偲んで会場あふれる皆さんが起こしくださいました。職員等の姿も沢山お見受けしました。

  終わりに、先生が晩年は、特に青少年の教育に力を注がれました。青少年に贈る言葉の中で次の一冊があります。
予期しない困難や失敗は人生につきものであるが、逆境に立ったときに人間の真価が問われるのである。「憂き事のなおこの上に積れかし 限りある身の力試さん」とばかりに苦境に立ち向かう
強靭な精神力を、日常の生活の中で鍛錬しておかなければならない。正に、明倫精神の基本です。と。

  先生が寄贈された、旧秋月藩の花と伝えられている明倫桜が、毎年、参議院議長公邸で、花をさかせます。日本の行く末を案じておられた、そして、誰よりも故郷宮崎、高鍋を愛してこられた先生のご遺志を引継がさせていただくことをお誓い申し上げます。
  ここに皆様とともに謹んで在りし日の先生の面影をしのび、ご冥福を心からお祈りして哀悼の言葉と致します。

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