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-基本理念と政策-
利益誘導体による、利益誘導のための代表ではなく、少しでも、現場の声、身近な声に傾ける努力をする身近な代弁者になることが、今の政治を正しく機能させるために最も必要であると考えています。
近頃の私たちは、お隣りやご近所、ライバルや同業他社など、「ヨコ」ばかりを気にし過ぎてはいないでしょうか。米国経済に学べ、福祉は北欧を見習え式の論調も所詮は「ヨコ」を意識したものに過ぎません。そして、あまりにも「ヨコ」にばかり気をとられ、もう一つの大切な視点である「タテ」軸を疎かにしがちです。
誰でも父母、即ち両親は二人です。その両親(祖父母)は四人です。そのまた両親(曾祖父母)は八人になります。こうして数えていくと十代前では自分のご先祖は千二十四人になります。二十代前になると、これが百万人を超えます。そうした命のバトンタッチを受けながら今の自分達があるわけです。当然のことながら、代々引き継がれてきた精神や遺伝子に組み込まれてきた気質があるはずです。そのことをしっかりと踏まえて現下の難局を突破することが、未来の世代への責任です。
残念ながら、東京裁判において戦勝国によって一方的に好戦的な邪悪な国家として裁かれて以降、日本は主権国家としての尊厳を失い、国民一人ひとりも日本人としてのプライドをもてなくなってしまいました。さらに、昨今の景気低迷は国民全体の自信喪失に一層拍車をかけ、日本の歴史・文化や日本人の国民性を否定的にとらえる見方が横行しています。しかし、日本人はそんなに恥ずべき国民では断じてありません。思い上がりは禁物ですが、卑屈すぎるのも問題です。もっと誇りをもつべきです。
その一つが、日本人は、小さなことをコツコツと積み上げていく努力をいとわない国民だということです。だからこそ、カメラや自動車、半導体や液晶技術など、小さな改良を重ね、ついには外国人の真似のできない高い水準にまで仕上げてきました。物づくりだけではなく、接客サービスや商品のアフターケアなども、小さな改善の積み重ねで独自の高度な水準を獲得してきました。町工場や商店街に無名の努力家たちがたくさんいたことに、もっと誇りをもっていいはずです。
バブル以降「労せずして儲ける」風潮も生まれましたが、いま改めて、小さな改良を重ねる努力を惜しまない日本人の原点を再確認すべきだと思います。「バケツの水をざるに流す」ような経済対策が続いていますが、努力をコツコツと積み重ねる勤勉な日本人が正当に報われる自由な社会を是非実現したいものです。そして、世界平和や地球環境のために黙々と貢献し、世界中から尊敬される国をつくり、日本そして日本人にプライドを取り戻したいものです。
さて、山積した諸問題に、取り組むべき政策課題としては沢山ありますが、特に基本的にと考えている課題について、環境問題、教育改革、社会保障、地域主権、情報公開の以上5テーマに絞って考えを申し述べます。
環境問題
国民一人ひとりが自由で自立した社会とは、公共に対する責任が厳しく問われる社会です。そして、すべての人間にとって、もっとも大切な公共財が環境であることを、私たちは忘れてはなりません。
宇宙から地球を見た映像を思いだしてください。丸い球体に陸地と海が存在している美しい星。それが私たち人類の生活の場であり、あらゆる生物の命の拠り所です。その地球が今、病んでいるのです。地球環境問題は二十一世紀、間違いなく人類にとって最大の問題のひとつになります。異常気象の発生、動・植物の絶滅の事例、健康を損ねる種々の化学物質の存在を見るにつけ、強い危機感を抱かずにはいられません。
日本はこれまで経済大国への道をひた走ってきましたが、その一方で、「自然破壊」や「公害」を引き起こしてきたのも事実です。さすがに昨今は、環境問題を重視した産業政策に転換され、モノを作る側に対して、各種の規制や環境規準を強化しています。その成果として、わが国はある面では公害を克服する実績を残してきましたが、地球環境を守る行動において、国際社会ではいまだ名誉ある地位を得ていません。
また生産者から消費者に目を転じれば、物質文明の浸透によって、大量消費の「使い捨て」文化にどっぷりと浸っています。まだ使えるのに、流行遅れになったからといって捨てる。壊れたら直すのではなく、新しいものを買う。最近では、情報処理機器に見られるように、性能面での製品寿命が短くなり、業務遂行上からも買い替えを強いられます。
個人の嗜好やグレードアップした製品にたいする購買意欲は、規制によってコントロールすることはできません。そこで大切なことは、私たちの意識改革を行い、日本をモノを繰り返して使うリサイクル型社会、あるいは廃棄物を出さないゼロエミッション型の社会に再構築することです。現在、容器包装リサイクル法も施行されてはいますが、社会活動を営む主体である私たち一人ひとりが、廃棄物と資源の関係に目覚めなければ、実効を上げることはできません。そこで次のような提案をしたいと考えます。
まず、義務教育において環境教育を徹底し、子どもの時から環境保全にたいする意識を育てる。太陽光、風力、地熱、波力、バイオマスなどの研究開発を積極的に推進し、自然エネルギーを中心とした代替エネルギーの実用化をはかる。公害防止、植林、自然林の保護など、環境保全技術の開発を進め、それを世界の国々へ積極的に供与し、国際的な貢献を行う。猛毒のダイオキシンをはじめとする環境ホルモン(内分泌撹乱物質)を制御する。廃棄物の減量化・再利用を促進するための基本法を制定し、新たな社会システムをつくりあげる。
私たちには、古来より自然と共生する知恵がありました。言い古されたことですが、かぎりある資源をどう有効に使うか、いまこそ国民一人ひとりが真剣に考えるべき時なのです。
教育問題
独創性に富み、元気な子どもを育てるには、教育制度の自由化を行わなければなりません。
小学校の図画の授業で一人の子どもがピンク色の机を描き、またある子どもは、テストで「雪が融けたら何になる」という問題に、「春になる」と答えました。何ともユニークな絵であり、すてきな答えではないでしょうか。しかし、ピンクの机を描いた子どもは先生に叱られ、「春になる」と答えた子どもは答案用紙に「バツ」をつけられたのです。子どもの個性や創造性は、ほとんど評価されないのが現状の教育です。
子どもたちは住民票をもとに決められた学校に通わせられ、文部科学省が決めた膨大で画一的なカリキュラムをぎゅうぎゅうに詰め込まれ、時には熱意のない先生に当たることもあります。「嫌な学校」で「嫌な科目」を「嫌な先生」に教わり、子どもは自分たちの個性や創造性を認められない。これでは苦痛を感じるのは当たり前です。いじめや刃物による悲惨な事件は、学校から逃避したいという子供たちの気持ちのあらわれではないでしょうか。
近代化が終わり、高度に経済発展をとげた現在の日本に、昔ながらの硬直的な教育制度は必要ありません。子どもが自らの個性と創造性をのばすことができるように、子どもや親が自発的に学校や先生を選べる教育の自由化が、いま求められているのです。
具体的にはまず、学区制を廃止して自由に学校を選べるようにします。学校には、生徒数に応じて国から助成金を配布し、その使い途は各学校の自由裁量にまかせます。これによって学校間に教育サービス向上の競争が始まるでしょう。次に、私学の設立を自由化します。全科目を教える学校でも、数学と理科を中心に教える学校でも、スポーツを中心に教える学校でもかまいません。
不登校などで学校に行けない子どもたちが、家庭で教育課程の履修を行なうことを認めるホームエデュケーション制度も導入すべきです。義務教育のレベルを保つには、国が「義務教育達成度検定試験」を実施し、その基準に到達すれば、義務教育を習得したと認定すれば問題ありません。もっとも大事なことは、教育する側が教育される側を選ぶのではなく、教育される側が教育する側を選ぶことです。
教育の自由化によって、子どもたちは「自由」と「自分」を回復できるでしょう。しかし、「自由」であることは、「責任」をもつことであり、「自分」を尊重することは「他人」や「社会」を尊重することです。ですから、利他の精神や礼節といった人間としての骨格を作り上げる教育も、学校のみならず家庭や社会においても進めていくことが肝要となります。
社会保障
社会保障制度は、国民の生活を保障する不可欠な制度です。しかし、それが最低限の生活を保障するものから、広く生活の一部を支えるようになったため、巨額の費用がかかり、国民に大きな負担がのしかかっています。今後の社会保障政策は、社会的弱者や困窮者、あるいは緊急の場合だけに限るという方向に進むべきです。つまり、基本的には自助努力を「主」とし、国からの保障を「従」とする社会保障制度を確立する必要があるのです。
私たちが毎月支払っている年金の保険料は、自分たちが将来もらえる年金の掛け金ではなく、いま現在の高齢者を養うために使われているのを知っていますか。この働く世代が高齢者を養うという制度が崩壊寸前になっています。少子高齢化のため、支える側と支えられる側の人口比率が変わってきているからです。このままでは、保険料は上がり続ける一方。それでも払った分だけ返ってくればまだよく、昭和五十年代半ば以降に生まれた人たちは、払う額よりもらえる額が少なくなるという予測です。
高齢者が多くなれば、年金支給のみならず、医療や介護のための費用も増大し、現在の社会保障制度がそのまま続けば、とんでもなく大きな負担がのしかかってきます。年金だけをみても、現在は四人で一人の受給者を支えていますが、次の四半世紀には二人以下で一人を支えることになりそうです。つまり、負担が現在の二倍になるのであり、他の社会保障負担も加えれば、さらに大きな負担増となります。いずれにしても、現在の社会保障制度全般が破綻するのはもはや時間の問題で、すでに、国民年金の保険料未払い者は三百万人にも達しています。将来を見据えて徹底した改革が急務となっているのです。
具体的には、公的年金制度を廃止し、最低限の生活を保障する費用の財源は保険料ではなく、税金によってまかなうようにすべきです。その際、所得の大きさによって受給制限を行います。もちろん、公的年金制度を急に廃止することは難しいので、過渡的な措置が必要でしょう。一方、民間の年金サービスを充実させるため、徹底した規制緩和もなされなければなりません。
介護については、地域それぞれの事情に適した対応ができるよう、地域主権のもと、各地域にまかせるべきです。
「自分たちの生活は自分で支える」、これが私たちが考える社会保障制度の基本です。
地域主権
地方が独自性を発揮しながら自立していけるよう、日本を「地域主権国家」に再編する必要があります。それによって、行財政の無駄がなくなり、日本の活力がよみがえるからです。
「シムシティー」というゲームを知っていますか。自分がある都市の市長になって、理想都市を築いていくシミュレーションゲームです。理想都市を築くには、自ら税率を決定し、緻密な予算編成と財政運営を行いながら、産業振興、交通網の整備はもちろん、災害や犯罪にも対応していかなければなりません。運営がうまくいけば人口は増え、その都市は発展しますが、運営が下手だと住民はよそに移住し、しだいに衰退していきます。
このゲームはアメリカの地方自治制度をモデルにしていますが、もし日本をモデルにしていたらどうでしょう。住民税や固定資産税は地方税とはいえ、首長が勝手に動かすことはできません。事業を進めようとしても、国からの補助金、許認可待ちとなり、霞ヶ関や議員会館に何度も陳情に足を運ばなければなりません。自分で何も決められない、実につまらないゲームになってしまいます。そして私たちはそのつまらないゲームを実際にやっているのです。
現在の日本の地方自治は、ほとんど機能していないといっても過言ではありません。中央は地方の事情を知らずに、地方をコントロールし、地方は中央に従うだけで、自ら創意工夫する余地をあまり持ちません。その結果、行政は非効率になり、不要な公共事業や公共サービスが行われるようになりました。中央も地方もその無駄に責任を感じなくなり、財政赤字が拡大し、私たちの負担は増える一方です。だからこそ、この中央集権的な国のあり方を解体し、日本を自立した地方を主体とする「地域主権国家」に再編することが必要なのです。
私たちは、日本を地方が創意と工夫を発揮しながら、生き生きと自立していける国にしたいと願っています。そのためには、中央政府の機能を最小限度に限定して財政規模の縮小を行い、所得税など中央への税金を減らした上で、地方政府が自らの事業を自らの財源で行えるよう、地方税の課税自主権をもてるようにしたいと思います。さらに、地方政府が財政的に自立しやすいようその規模を拡大し、市町村合併の推進を図るべきと考えます。
地方が自ら財源を確保し、地方自らがそれを使うのであれば、私たちは身近なところで受益と負担を実感し、税金を払っている意味がわかるようになります。政治への興味や参加が活発になり、行政はいかに効率的にその財源を使うか、創意工夫を凝らすようになります。地方の自立は必ずや日本を蘇らせる力となるでしょう。
自立した地方があり、それぞれがお互いに助け合うことによって発展してきたものが国です。国があって地方があるのではなく、地方があって国があるという、国のあり方の基本に立ち戻ろうではありませんか。
情報公開
現代社会において、情報は行動の指針です。そうした情報の中で、私たちにとってもっとも重要な情報のひとつが行政情報にほかなりません。行政は国民の負担で国民にサービスを提供するために存在し、国民生活の大きな部分を左右しているからです。しかしながら、この行政情報ほど私たちに届いていないものはありません。「よらしむべし、知らしむべからず」、すなわち政治や行政はプロに任せて、民はただ黙ってついてくればよいという旧態依然の体質が今も引き継がれているのです。
どのような人間であれ、どのような機関であれ、他者から監視されない「密室」で権限を行使しているかぎり、堕落してしまうのは自然の摂理です。これまでの行政のムダや、財政赤字、度重なる不祥事などを見れば、それは一目瞭然ではありませんか。
最近、世論の盛り上がりもあり、ようやく政府は重い腰をあげ、情報公開法が国会で審議される運びとなりましたが、その内容は不備だらけであり、もっと徹底した内容にしなければなりません。
具体的には、まず情報公開法の根拠が、主権者である国民の「知る権利」ではなく、政府の側の「説明責任」だけに置かれている点です。文字どおり、民主主義とは民が主(あるじ)ということであり、それは憲法において、国民主権というかたちで明記されています。したがって、情報公開は、国民主権に立脚した「知る権利」にほかならないのです。
国の会計に民間企業と同じ会計方法を導入する必要もあります。民間企業があたりまえのように使っている会計制度は、企業の実態を正確に伝達する優れた方法です。国もこの会計制度を導入し、資産や負債状況、各経費予算の積算根拠が明確にわかるようにすべきです。
また、責任の所在を明確化するために、政策決定プロセスの密室性を打破し、意思形成過程の情報を公開することも着手されなければなりません。さらには、現行案では情報の開示、不開示は行政の長が判断することになっていますが、行政自身に裁量権をあたえることは、情報公開自体を空洞化させることになりかねないので、その判定は、第三者機関に委ねる仕組みに変更する必要があります。
さらに、特殊法人は情報公開の対象から除外されていますが、特殊法人こそ行政のムダ、癒着、腐敗の温床であり、例外なく情報公開の対象とされるべきです。地方自治体についても、国とまったく同じことが求められるのは、言うまでもありません。
情報公開は、現在、一部市民団体の関心事の域にとどまっている感が否めませんが、国の大原則である民主主義の根幹であることを国民一人ひとりが強く認識し、国民の声として早期実現を目指して推進していかなければなりません。
もちろんこれ以外の問題にも色んな政策課題があります。それらにつきましても政治理念に基づき解決のための努力をいたします。
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